天才の軌跡。科学と宗教とガリレオ・ガリレイと。
Nicolaus Copernicus / ニコラウス・コペルニクス
Johannes Kepler / ヨハネス・ケプラー
Sir Isaac Newton / アイザック・ニュートン
16 〜 17世紀にかけて起こった科学革命の担い手達は、人類がそれまでに常識としてきたモノ・コトに疑問を唱え、入念な観察と天才的なひらめきによって人類の行く先へと美しい光を指し示しました。
そしてそんな偉人たちと並んでこの時代を切り開き、人生を賭して真実を探求したイタリアの天才、今日紹介するのは " Galileo Galilei / ガリレオ・ガリレイ " とその博物館です。
時代は16世紀末、科学が宗教から分離して論じられるのはまだ随分と先の話。
キリスト教が伝える「天地創造」に真っ向から異を唱える「地動説」を、ローマ教皇が絶大な権力を持つカトリックの国イタリアで唱える事は、学者として積み上げた全てを失う可能性を持っていたこの時代。
それでも彼は地動説を唱え、異端審問によって全てを失いながらも、真理の探究に人生を費やします。
後に「科学の父」と呼ばれる天才が生きたイタリアのトスカーナ地方には、そんな彼の功績と苦しみを今に伝える様々な場所が残ります。
産まれ故郷であり大学に通ったピサ。歴史ある大学で教鞭をとったパドヴァ。そんな知性に満ちた美しい土地々と並び。
彼が最も盛んな時期を過ごしたフィレンツェの街には、メディチ家とローレン家が所蔵していた自然科学、物理学、数学の分野における科学装置のコレクションと共に、ガリレオ・ガリレイの使用した科学実験器具のオリジナルや自身の指の遺骨などの貴重な蒐集品を含む " Museo di Storia della Scienza / フィレンツェ科学史博物館 " がアルノ川の脇に残されています。
ガリレオ・ガリレイ
イタリアの物理学者、天文学者、哲学者であり「科学の父」と称される、ガリレオ・ガリレイは1564年、その生を授かりました。
音楽家であり呉服商を営む父の元に産まれた彼は、1581年ピサ大学に入学するも、その4年後に退学し、82年頃からは宮廷付きの数学者 オスティリオ・リッチの元でユークリッドやアルキメデスを学び、やがて最初の科学論文「小天秤」を発表します。
- ※ 写真はフィレンツェ、ピッティー宮にあるシュステルマンスの描いたガリレオの肖像画
- ※ フィレンツェ科学史博物館のガリレオの展示室に置かれる石膏像
1589年には、ピサ大学の教授の地位を得て数学を教え、92年にはパドヴァ大学で教授職を得ると、その後1610年まで数学、幾何学、天文学の教鞭をとりました。
「振り子の等時性」や「落体の法則」「木星の衛星や太陽黒点の発見」など、物理、数学、天文学のあらゆる分野において多数の業績を残したガリレオは、この後、天動説を巡る論争の中で少しづつその人生に影を落していく事となります。
- ※ 「落体の法則」を発見する際に実際に使用されたレールの実験器具
- ※ 月の詳細な観察メモ
「天は不変であり、月より遠い場所では永遠に変化は訪れない」とする天動説に対し、様々な観察から確信を持ち、やがて地動説への言及を増やすガリレオ。
- ※ 観察に使用した望遠鏡
そして、17世紀初頭、地動説の解説書である「天文対話」を執筆、教会の目をくぐり抜け出版した後、そんな彼の言動と行動はローマ・カトリックに対する反発だと受けとられ、ついに有名な異端審問の裁判にかけられることとなるのです。
そんな歴史を振り返る様に、博物館内部にはガリレオの時代から受け継がれる科学具の美しいコレクションの数々がピカピカと輝いて時代を物語ります。
- ※ 美しいガラスの実験器具のコレクション
- ※ 18世紀に産まれた電気とその巨大な実験装置の数々。
ガリレオは晩年、振り子時計を発明した事で知られますが、その後の時代に生まれた様々な種類の美しい時計も展示されていました。
これらは美しい天文学、数学の道具や模型の数々。
さらに3階建ての広い館内には医学コレクションのスペースも設けられています。
1633年、ローマ
さて、話をガリレオの時代に戻しましょう。
時は1633年、ローマ。
自身、熱心なカトリック教徒であったにも関わらず、自らが信じる科学については、教会の権威に盲目的に従うことを拒絶し、哲学や宗教から科学を分離することを提唱し続けたガリレオ。
二度目の異端審問所の審査に呼び出され、有罪を告げられると、地動説を放棄する旨が書かれた異端誓絶文を読み上げることを求められ、同時に彼が持っていた全ての役職は剥奪され、あらゆる名誉を失った後、監視された生活のなかフィレンツェの自宅に帰る事も許されず、やがて死の床につくこととなります。
法廷で、自分の信じるカトリックから渡されたその文章を一体どんな思いで読み上げたのか、その後つぶやいたとされるこの言葉は、後の弟子達の創作とされているのですが。
" E pur si mouove "
それでも地球は動く
信念と信仰。
彼の人生を通して見えて来るのは、そんな二つが残酷に絡まり合って産まれた科学の幕開けの姿です。
そして博物館のガリレオのスペース中央には、そんな彼の右手中指の遺骨が、美しい木製の容器のなかで今も垂直に突き立てられていました。